愛すべき歌舞伎座の歴史と歌舞伎の魅力に迫る!

歌舞伎座

歌舞伎座歌舞伎座は今年2018年11月21日で130年の時を中央区銀座に刻む。
この歴史を刻む間には、火災、震災そして戦火によって全焼するなど幾多の危機を乗り越え、今では東京、日本におけるシンボルの一部として聳え立って(そびえたって)いる。
歌舞伎に纏わる(まつわる)話は江戸から数えても多いが、銀座・木挽町(こびきちょう)の地に開場した歌舞伎座は、苦労を偲んだ末に今日に至っている。
日本人に寵愛される歌舞伎座になるまでには、歌舞伎小屋の変貌と共に苦難の道があった。

先ず歌舞伎の原点は、出雲阿国(いずものおくに)が巫女として京に上って、男衣装に身を包み、舞を披露した「かぶきおどり」が始まりとされている。
その後、徳川家の命を受けて、今の中村屋に江戸歌舞伎元祖となる猿若勘三郎が1624年(寛永元年)に「猿若座」を江戸・中橋(日本橋と京橋の間)に芝居小屋を設けたことで江戸歌舞伎が始まる。

しかし、直ぐに太鼓の音が籠城の合図に似ており、江戸城に近いとのことで禰宜町(ねぎちょう=日本橋堀留あたり)へ移り、さらに堺町(中央区人形町)に移転を余儀なくされた。その後、江戸歌舞伎は町人の娯楽として全盛の時を迎え、元禄時代1670年頃に江戸歌舞伎は、中村座(堺町)、森田座(木挽町=現歌舞伎座あたり)、市村座(葺屋町=ふきやちょう)、山村座(木挽町四丁目=銀座6丁目あたり)に小屋を構え「江戸四座」として隆盛を誇った。

しかし、1714年(正徳4年)に山村座を舞台に起きた大奥の一大事件となる「江島生島事件」が起こり、山村座が廃座となったこと事件が終焉を迎えるが、歌舞伎の存亡の危機に瀕した。
それを救ったのが、『花館愛護桜』を同座において初演、助六(=助六弁当でお馴染み)を演じ当時人気を博した二代目市川團十郎(だんじゅうろう)が色々な改革に奔走し歌舞伎界を守った。
そして新たに江戸歌舞伎は江戸三座となって再始動した。

余談だが、人形町の歌舞伎には役者以外にも有名人がいた。中村座に出入りする便利屋に治郎吉という倅(せがれ)いて、当時財政難で警備の手薄だった武家屋敷に忍び込んでは盗みをはたらく、通称、鼠小僧次郎吉(ねずみこぞう じろき)も歌舞伎関係から出生している。

1841年(天保12年)、中村座が失火で全焼、さらに火災は堺町・葺屋町一帯(今の人形町界隈)を燃やし尽くす大火事となり、市村座にも飛び火が移り全焼した。
江戸は兎に角、火事が多く「火事と喧嘩は江戸の華」と明言も残る。
折しも老中首座の水野忠邦が天保の改革を進めている最中で、これを庶民へのみせしめとして幕府は悪名高い歌舞伎を弾圧する。
その後は猿若町(台東区浅草6丁目周辺)に移転を命じ、この猿若町に中村座、市村座、森田座が束ね、猿若町三座(さるわかまちさんざ)となる。

やがて明治維新を経て江戸から東京府となった木挽町の地に福地櫻痴(ふくち おうち)らが演劇改良運動を通して、1889年(明治22年)に歌舞伎の殿堂として歌舞伎座を誕生させることになる。この歌舞伎座という名は異例中異例で、普通名詞であった歌舞伎小屋を殿堂の域として「歌舞伎座」として竣工する。

しかしこの殿堂も130年の歴史の間、いくつかの苦難の道を通らざる得なく。
1921年(大正10年)には漏電で焼失し、さらに2年後の修復中に関東大震災に被災し、内装用の桧材に火が燃え移り、改装中に全焼する災難に見舞われた。
その後、歌舞伎座は大正時代に松竹に経営が移り安定。
特にコクトーは歌舞伎座で六代目尾上菊五郎の「鏡獅子」を見て『美女と野獣』を創作したことされる。
4度の建て直し経て、2014年に現在の5代目歌舞伎座が竣工している。世界を魅了する日本伝統を演じる舞台が中央区にあることは、我々の自慢だ。

歌舞伎座ポスター歌舞伎座では、130周年のフィナーレとして12月の大歌舞伎は「あんまと泥棒」が演舞される。
あんまの秀の市と権太郎と掛け合いは、歌舞伎ファン以外でも直ぐに楽しめる。
故中村勘三郎さんが演じているのが印象深いが、中車さん(香川照之)が演じるあんまの秀の市もまた楽しみだ。
歌舞伎初心者でもわかりやすい作品なので、ぜひ堪能してほしい。

(地域ライター・Tさん)

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